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創作論

某SNSで「詰将棋の創作は発明なのか発見なのか」という話題が盛り上がってました(正確に言うとSNS上の某氏のブログなのですが)。

それを見ていて思い出したのが昔の短コンの解説で書いた一文でした。冬眠蛙の意見は今でも変わっていないので、載せておきます。

☆「詰将棋は創るものではなく発見するもの」と貴方は言う。私は反論する、「血の滲む推敲の末の産物を発見とは割り切れない、過程と結果を見間違えている」と。貴方は「百も承知で言っている」と笑うだろう。

☆私も貴方がそう言うのを承知で敢えて書いている。

 

当時ある作家の方が、発見発見と訳知り顔で連呼して書いていたのが面白くなくて、無理やり書いたものです。

今読むとアレですね。えーと、「これ解説の中の一文で書いても読んでる人は”なんのことやら”って感じだったろうなあ」って思います。はい。特に非難も浴びてないので、反省していません。ははは。

ちなみに別にこの見方を他人に強制するつもりはありません。あしからず。

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詰将棋」カテゴリの記事

コメント

それでもなお「発明」という言葉は当てにくいのでは。
「発明か発見か」という問い方をされると「発見」と言いたくなるのではないでしょうか。

(「血の滲む推敲」をしていない者の意見ですけど。)

言葉足らずでした。
確かに「発見したんではなく作ったんだよ。」と言いたくなることはありますね。
ただその場合でも「発明した」とは言いにくいなんじゃないでしょうか。

「作った」、漢語では「創作した」「創造した」「制作した」…などがむしろふさわしいでしょう。

だから「詰将棋は作るものか見つけるものか」と問いを変えると答えも変わると思います。
この場合は、むしろ僕は「作る」派です。

再三すみません。

一方で、たとえば、苦労したあげく、ある配置を得て完成した場合には、「よくこの配置が見つかったなあ」と思うこともあります。
このときは、作った、というより見つけた、という感じです。

文脈次第、ということでしょう。

>文脈次第
至言ですね。

発明か発見かと問われたら、発明ではないが、さりとて発見でも不正確でしょう。
発見と工夫の連続で根気のいる作業が伴います。
中には発見と偶然だけが必要十分条件だなんていうのも。

詰将棋は発明だと思います。
私は、発見した(コンピュータに頼った)作品は、
ネットに公開して、ねむねむさせてます。

ちょっと気になる。
発明が偉くて発見がそうでないような前提。
ひょんな幸運によってもたらされた発明もあれば、血の滲む努力のすえに得られた発見もある。
シュリーマンはどのような困難を克服してトロイの遺跡を発見(発掘)したのだろうか。

発見、創作、発明。
下界の民が勝手に言ってるだけで、将棋の
神様はすべてお見通しってことさ。

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